てきとー趣味おたく

ソシャゲ、ポムポムプリン、コーヒー・紅茶、ジャグリングなど、オタク女の日常と思いついたことをつらつらと気まぐれに。

【メンヘラ嫌いはブラウザバック】「五間セオ」が「ごませんべい」になるまで

昨日はaffareお疲れ様でした。日程被りのポイコレ、YJFの皆さまも。

 

昨日はaffare当日の勢いで「うわーすげーーー!たのしー!」を書きなぐる感じになってしまいましたが、今日はaffareの一言コメントでもあった「改名」に至るまでの理由を順を追って書いていこうと思います。

メンヘラ注意!な記事なのでメンヘラなんか嫌い!みんな純粋にジャグリングやってるっしょ!って方は早めに逃げてくださいね。

 

 

 

 

 

 

「五間セオ」になってからやめるまで

2015年4月

遡ること4年半ほど前、第一志望である電通大に合格し、ウッキウキな気持ちで入学を果たしました。

どこかのサークルには所属する気満々で、初めはゲーム製作だとかお絵かきだとか小説執筆だとかの高校までにやったり憧れたりしてきたオタク趣味をやろうか、小学校以来途切れていた水泳をまたやろうか……などなど、色々な選択肢の中で悩んでいました。

選択肢の中で、高校の卒業祝いで遊びに行った時の友人の一言「君にはこんな一発芸とか個人的にはやってほしいな!」という無責任?な一言から、ジャグリングサークルぱさーじゅが候補に上がっていました。

そして新歓期、師匠師匠とのちに慕うようになる先輩(当時部長)の演技に一目惚れし、「部長!ぱさーじゅに入りたいです!」と直談判して晴れてぱさーじゅへ所属し、ディアボロをメインにジャグリングすることとなりました。

 

2015年5月

ぱさーじゅは毎年5月末くらいの時期に定期公演を行なっています。先輩方も、この時期最後の追い込みをかけるように準備に追われ、講堂での練習、リハーサルが何度も行われました。

私の目に写っていたのは輝かしい先輩方の姿。かっこいい、うまい、素敵な演技、ジャグリングのことは初めたてだからまだわからないけど、私もこうなりたい。先輩方への憧れはどんどん募って行き、練習も楽しくなりました。

そんな矢先、体育の授業で右手薬指を骨折。だいたい元の生活に戻るまで1ヶ月ほどかかりました。

骨折としてはまだ軽い方でしたが、右手がまともに使えないのでディアボロはできず、仕方ないから左手だけでボールの2in1を延々練習する日々。

同期は楽しく練習しグングンうまくなるのに、私は怪我で成長が少し遅れる、怪我のショックも相まって焦りを抱えていました。

 

2015年6月〜9月

定期公演も無事終わり、怪我も治ったところでリハビリしつつディアボロの練習再開。とにかく同期に取り残されたくない、先輩に追いつけなくても近づきたい、そんな一心でひたすら練習をしていました。

調布祭ではステージネームを名乗る人が多いから、考えておくといい」というアドバイスをもらいました。そして、大学用のHNと、好きなキャラクターから連想をして「五間セオ」、省略形として「セオ」を名乗るようになりました。

それからちょっとした発表会もあって、(今思えば)1年生らしい必死の演技をしたり、その後の先輩方のおふざけで笑ったり。

8月末頃にあった夏合宿で師事する先輩からディアボロを丁寧に教わり、必死に練習したり。また夏のテンションでイカれた先輩に笑わせてもらったり。大雨で宿にたどり着くのに苦労したのは別の話。

今までで二番目くらいに楽しくジャグリングしてた時期だと思います。

しかし、夏休みは地方出身組は帰省し、実家組はなかなか家から来るのが億劫な期間。練習人数が少なく、ちょっと寂しい思いをしていました。

この時、当時の交際相手(非ジャグラー、以下Nと表記します)にちょっとした話題として愚痴ったところ、「他人の行動は(君には)決められないよ」。少しモヤモヤした気持ちを抱え、夏休みも練習に励みました。

 

2015年10月

JJFの時期です。

初めてぱさーじゅメンバーではないジャグラーを見ました。今見ている同期よりも、先輩よりも、うまい人がたくさんいる。違う世界を見せつけられました。

まだジャグラーにどう関わっていいかわからず、うまく交流もできなかったので、先輩の後ろをちょこちょこついて行くか、邪魔にならないような位置にいってひっそり練習するかでした。ステージイベントがあれば見に行ってみたり、紹介を通して知り合いが増え、今でも交流が続く方がいらっしゃったり。

JJFを満喫し、翌月へのやる気をもらって帰路へつきました。

CSGSも含めて広い世界を見ることができて興奮した反面、自分が見ていた世界の狭さを感じてまた焦りが募りました。自分はまだまだ、もっと上手くならねば、と。

 

2015年11月

調布祭というぱさーじゅにとっては一大イベントの時期。

JJFくらいにルーチンの技の構成は大まかに考え、こんな感じで行ってみようかな?と拙い案を持って部内の調布祭向け発表会に挑みました。

しかし、通した回数が足りているとは言えなかったこと、4年生以上の上の世代の先輩に気圧されてしまい、結果はボロボロ。アドバイスはもらいつつも、しょんぼりして家に帰りました。

そして、この時にNへ不安を吐露した時の一言「練習が足りないからミスするんでしょ?」、この言葉が私に良くない火をつけました。ちょっとした言い合いの末、「ノードロノーミスの演技をして見返すそうすれば少しは認めてくれるはず」

今では考えられないほどの勢いで練習し、通し、先輩や同期を捕まえて見てもらってまた調整して。

不安が一周回って、居合わせた某有名ジャグラーさんにも見てもらい、優しくアドバイスを頂きました(その節はお世話になりました)。

迎えた本番その1。ちょうど誕生日、家族が見る前で無事にノーミスノードロを出し、ボールボーイをしていた師匠たる先輩も喜んで下さいました。

本番はもう1回あり、「1回目の方は都合が悪いから、2回目を見に行く」という連絡をNから受けていたので、同じようにしっかり頑張ろう。うまくいく。そう考えてステージへ臨みました。

しかし、本番中の舞台裏、観客から見えない場所でNと連絡を取ってみると、私の出番が終わった後で「やっと着いた」。

頭の中で、積み上げてきた大事な何かが崩れる音がしました。彼に見てもらわなければ意味がなかったのに、私は何のためにここまで頑張ったのか。

ここから、五間セオはどんどんと狂って行きました。

 

2015年12月〜2016年1月

調布祭の打ち上げで、師匠から一言「静ディアに出てみないか?」という打診が。自分みたいなヘタクソが大会なんて……と言う私に対し、「俺は君に経験を積んでほしい」という言葉で、勇気を振り絞りエントリーしました。「きっと、ここで数字を出せばまたNも、そして家族も認めてくれる」、そんな気持ちもありました。

演技は調布祭ルーチンの再編で、練習もそこそこに本番に挑むと、見事にほかの出場者に圧倒され、結果は惨敗。他人に認めてもらうどころか、自分が惨めで仕方ありませんでした。

静ディアというイベントそれ自体はとても楽しかったです。エンターテイメント部門(当時)の審査員を歴1年目のプレイヤーの中から指名していただき、最前列で見るという貴重な経験もしました。

(この回を皮切りに、2018年を除いて出場しては爆死、を繰り返し、ハンバーグレストランさわやかを楽しんでいます。)

 

2016年2月〜3月

静ディアで大爆死してしょんぼりするのも束の間、次には定期公演が待っていました。

もちろん演者側として志願し、出演枠を先輩と争うことになるかと思いきや、競合した先輩が辞退。結果的に出演することに。

「この定期公演は歴史のあるもの。どうかみな自分らしさを、そしてぱさーじゅらしさを出して頑張ってほしい」。この激励が余計に私を追い詰めました。

ステージの雰囲気との調和を図るため、先輩から提示された曲でルーチンを作ってみるも、うまくいかず。春合宿で発表するも、フィードバックを受けながら涙を流す始末。

先輩に「見せて」と言われても、恐怖心が勝ってしまい、理由をつけてはそそくさと帰る始末。

このあと、3月は怖くてほとんど練習に行けず、ネトゲにのめり込んでいました。

ある日、高校の後輩から「こんな変な映画があるんです!もう頭おかしくって!」と勧められた映画を見に行きました。映画のタイトルは「KING OF PRISM by PrettyRythm」。

たしかに、演出はあまりに頭のおかしい作品でした。でも、「あぁ、この先輩みたいになりたいなぁ」と憧れ、最後にはステージで人を笑顔にした主人公の姿が自分と重なり、勇気をもらいました。

 

2016年4月

映画をきっかけに、練習に復帰。担当の先輩に打診し、ルーチン曲の変更の許可をもらいました。

さすがに空白が1ヶ月も空き、公演が少しずつ迫るのもあって、ルーチンを作り直すといい感じにスルスルっと構成が湧き出ました。原型があったとはいえ、「あ、うまい人はこんな感じでルーチン作ってるのかな」という感触を得ました。

足りなくなった練習を補うようにルーチンを無理のない程度に通し、以前よりは綺麗な形に。

幕間の演技練習にも身が入り、新歓を行いながらも準備を進めていきました。

 

2016年5月

最後の追い込みからの、公演本番。

幕間の演技はいい感じ、ルーチンの出来はイマイチでしたが、それでも楽しく本番を終えることができました。

 

2016年6月〜9月

劣等感にまみれた1年生の時とは違い、少しは練習時間を妥協したり、また後輩ができて後輩に負けじとやるぞ、といった感じで、特に問題なく練習ができていました。

夏前の発表会では同期を集め、定期公演をネタにしたおふざけで楽しみ。

平穏な大学生活、平穏なジャグリング生活でした。

 

2016年10月

JJF、初体験の東京開催。ちなみに、この直前にNとは破局となりました。

他大の方と一緒にスタッフを手伝ったり、そこまで遠くもないのに宿泊をしたりして合宿気分を味わい、非日常に浸りました。

また、少しジャグリングに慣れてきて、CS出場がいかに凄まじいのかを理解できるようになり、1年前よりも楽しいJJFでした。

JJFが終わり、調布祭の時期が近づき、各々ルーチンを組んで最初に来る発表会へ備えていたある日。師匠から「チームやってみない?」と一言。「相方が私でいいならやりましょう!」と快諾。晴れて密かに夢見ていた師弟ペアルーチンを行うことになりました。

 

2016年11月

私は自分のルーチン練習よりも、もう一つの女子5人チームよりも、このチーム練の時間の方が楽しかったと記憶しています。憧れの先輩が、一緒に舞台に立ってくれる、しかも同じチームの相方として認めてくれたのです。

演技構成などはほとんど先輩に考えてもらう形になりましたが……

舞台脚本もこのチームが割り当てられた枠の担当をもらい、それに合わせて気合いを入れて脚本を書いて、演技指導をして、とにかくやりたい放題やらせてもらいました。

本当に、チーム演技の練習をしている時間とこの舞台の演出を考えている時間は楽しかったです。今までにないくらいジャグリングを楽しんでいました。

迎えた本番、チーム演技は1ミスノードロの大成功。本当に幸せな時間でした。

 

2016年11月〜2017年1月

調布祭が無事終わり、静ディアと次の定期公演の準備。

スケジュール的に定期公演は一旦後に回し、静ディアの準備をしていました。

昔体操を習っており、側転が出来たので、「あれ?ハイトスして高く上げてる間に回れば取れるんじゃね?」ということで側転ハイトスで勝負。残念ながら本番ではキャッチできず、入賞は逃してしまいました。惜しいところまで行けたのは成長だと思いました。

12月半ばに新たに男性と交際開始(非ジャグラー、以下Y)。サークルで辛かったことなど、色々と聞いてもらったり、気晴らしに遊びに行ったりといったことに付き合ってもらいました。

そして、定期公演。任された役職は脚本・演出。公演の中核を握る役職です。

そして、自分も演者として出演することに。

「ぱさーじゅらしく」「伝統のある舞台」「面白いかどうかはお前で決まる」この言葉たちを胸に、原案とルーチンを考えました。

昔文芸部だったから、また、同期の中でも比較的練習出席率の高かったメンバーだから、ということも合わせて引き受けることにしましたが、「演者各々のルーチンをしっかり生かすこと」「自分のストーリーへのこだわり」「伝統に恥じない舞台」の3点で、大きく苦しみました。

 

2017年2月〜3月

定期公演の宣伝も兼ねて、東北合宿に師匠についていくように外部枠で参加させてもらい、東北勢と親交を深めました。

ジャグラーとの交流スキルが一歩前進しました。楽しかった!

定期公演の脚本は「大人から子供まで楽しめる舞台」という理想を諦め、自分の世界観を貫いた原案を持っていき、春合宿で最初の読み合わせ。舞台経験者が後輩におり、舞台を行う上で問題となりそうな点を指摘してもらいながら、一度脚本の改良を行いました。

合宿が終わってからは教室を借りての幕間練習。

演者にある程度動きを考えてもらおうかな、と思っていましたが「この脚本の情報量では読み取れる物が少ない」という指摘で、私が考えた理想を、調整しながら動いてもらうことに。

ここで一度演技指導の方針が固まり、少し光が見えました。

しかし、日常生活ではどことなく違和感があり、責任があるはずの練習に行くのが苦痛、今までできたことができない、やたらと不安になる、と自覚症状が顕著になりました。

PMSを疑い、婦人科を受診して、薬で様子を見ることに。

しかし、焦りは募るばかりで「楽しむのが義務」「ジャグリング楽しんでなきゃぱさーじゅには居られない」「先生も、身内を含めた観客も認めさせる」と、少しずつ自分に呪いのような言葉を言い聞かせる毎日でした。

 

2017年4月

新歓をこなし、また新たに入ってきた後輩たちの顔を見ながら、定期公演の準備をどんどんと進めていきました。

講堂を借りての練習が始まってからはどんどんと心理的に追い詰められ、まともに先輩からのアドバイスは聞けないほどに。

通し練習や場面ごとの練習での指示出しは行いますが、フィードバックが恐ろしく、舞台袖で目と耳を塞いでうずくまることが非常に多かったです。

これでは定期公演は完遂できない、と精神科を受診しました。

不安を医師に吐露したところ、「気にし過ぎだよ」と笑い飛ばしてもらいましたが、それでここまでに積み上がってきた焦りや不安が消えることもなく、とりあえず薬で凌ぐことにしました。

 

2017年5月

本当の本当に追い込みの時期。精神科で処方された薬でどうにかするも、やはり精神的に追い詰められている事実は変わりません。

追い詰められているのは苦しかったですが、同期と後輩を巻き込んでいる以上、ドタキャンするわけにはいきません。

本番までとにかく追い詰められてる心を奮い立たせ、時には講堂ステージの袖でうずくまりながら、本番まで駆け抜けました。

そして、当日の照明調整や音響調整などをやってもらい、チェック担当として見に行きつつ、本番を迎えました。

自分のルーチンは散々でしたが、無事終えることができました。

もう、この時点で「五間セオ」はだいぶボロボロでした。ジャグリングが苦しくて仕方ありませんでした。

公演の打ち上げで感想や投票発表があったはずですが、「実家に帰って日曜休む」ということで欠席したので、内容や結果はわかりません。いいこと書かれてたり1票くらい入ってたりしたら嬉しいな。

そして本番が開けて次の月曜日。実験の授業という、なによりも全力を尽くさねばならない授業に、出席できませんでした。

あまりに苦し過ぎて、実生活にも影響が及んでしまいました。

 

2017年6月〜10月

母親に「大学に行けない」と相談し、残りの前期は全てサボり、3年後期を休学することに。

ここから「ジャグリング」というものをしばらく実生活から完全に切り離しました。

また、下宿先は残しつつも実家に一度戻る形で、生活レベルは最低限に。

ここからしばらくの時期を「メンタル暗黒期」と呼んでいます。

ただただ、Yやその友人とゲームしたり、知り合いが出演するクラブイベントが楽しくて、それを心の拠り所にしていました。

あと、2016年の定期公演で立ち直らせてくれた映画の続編が公開されたため、それも楽しみの一つでした。

先輩に調布祭に呼ばれ、一度メイクの手伝いをしてあとは気ままに過ごしていました。

ぱさーじゅは、逃げた私を暖かく迎えてくれました。

 

2017年11月〜12月

何もしない、せいぜいゲームだけの自堕落な日々、として休養を気ままに過ごしているうちに、少しだけ精神面も回復してきたので、一度大学へ行って見ることに。

ちょうどこの年のJJFゲストであるディアボロプレイヤーのギヨームが練習へ遊びに来ていたので、それを眺めるついでに体を動かそうと思い、サークルの練習に足が向かいました。

成長した後輩たちを見て、劣等感とまでは行かずとも、時間の流れを感じました。

あとはただカウンセリングと病院に通い、ゲームをしてグダグダする日々でした。

 

2018年1月

静ディアの時期、出場エントリーするほどの体力も精神力もないので、とりあえずただ見に行きました。気楽で、ただ楽しむ側で、「来年は頑張ってみよう」と、そう思えました。

 

2018年2月〜3月

相変わらずぐだぐだっとする日が続きます。

次年度から復学予定だったので、それに向けた準備をしつつ、あまり使っていなかった下宿を引き払い、一度実家通いに戻しました。

 

2018年4月〜6月

復学してからの前期。3年生として再スタートを切りました。

初めは調子が良かったのですが、まだ傷は癒えきっていなかったようで、中間テストや期末テストはまともにできず。

しかし、ちまちま「気が向いたら練習へ」ということで、五間セオの復活を図っていました。

Yもあまり調子が言えない状態が続いて、お互いに似たような状況になってしまい、5月にYとは破局。今では良き友人です。

 

2018年7月〜8月

あまり精神的に余裕があるとは言いにくい状況で実家通いするのがしんどくなり、親に直談判して改めて下宿を再開しました。今でもこの下宿で生活しています。

夏になって、現在の交際相手(ジャグラー、以下T)と交際開始。

Tとは良好な関係ですが、Tがジャグリングしているのを見ると、少し罪悪感に駆られる自分がいました。

ジャグリングはあまりしませんでした。

 

2018年9月〜11月

夏休み&調布祭

夏合宿に久々に行き、行きのバスでVOICEROIDを買って使ってみたり、調布祭で久々にルーチンを組んでやってみたり。

しかし、休学前ほど練習に身を入れることができず、出来はボロボロでした。

やはり、五間セオはあまり元気にはなれませんでした。

新たにバイトを10月から始め、静ディアへエントリー開始してすぐに出場を決めました。

 

2018年12月〜2019年1月

バイトが上手く行かず、また精神的に崩れだしました。

バイトだけでなく、ジャグリングにも身が入っていないことで、かなり追い詰められて行きました。

静ディアは出来がそこそこだったものの、想定通り結果は振るわず。しかし、「負けるだろうけど出るだけ偉いんだ!」という心持ちでダメージは少なかったです。

運営の方に「出場してくれてありがとう!」と仰っていただいたり、「静岡まで来てくれてありがとう」というお言葉を頂いたり、ひとときの幸せを噛み締めました。

 

2019年2月

上手くいかないバイトはあまりにもしんどく、別のものに変えました。

とあるジャグリングステージを、先輩も出るから、ということで観に行きました。

ですが、時間ギリギリの到着で鑑賞時に体力ギリギリだったこと、冬の寒さで精神的な崩れがしんどかったこと、そして「定期公演を行うにあたり、これは参考にしておくといい」という言葉を思い出し、トラウマがフラッシュバック。拍手が聞けず、舞台を直視できず、せいぜいルーチンが見れるかどうか、というほど酷い状態になりました。

この後の生活でも五間セオを名乗ってジャグリングをすることはしんどくなり、ついに、回復したと思っていた「五間セオ」に積もり積もった傷に限界を感じ、私は「五間セオ」を捨てようと思いました。

 

長くなりましたが、ここまでが「五間セオ」をやめた経緯です。

 

 

「ごませんべい」の由来

この期間に「五間セオ」を含め「CENTER」「五間天(いつまてん/ごまてん)」の3つの名前をネットで名乗っていました。

五間セオ以外の2つの名前を組み合わせ、他の名前との隔たりもなくすことも考えて「ごまCEN」とくっつけ、語呂が良く、ふんわりしたイメージになるよう「ごませんべい」としました。

 

 

 

長々とお付き合いいただき、ありがとうございました。

ごませんべいはこれからも、無理せず楽しくジャグリングしたり趣味を満喫していこうと思います。