てきとー趣味おたく

ソシャゲ、ポムポムプリン、コーヒー・紅茶、ジャグリングなど、オタク女の日常と思いついたことをつらつらと気まぐれに。

実家の安心感と祖母の存在

 

実家は千葉県、都内の大学に通い、神奈川県に住む、エセ首都圏コンプウーマンです。

バイトは大学近くでやってます。今日は忙しい日でした。

 

 

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休憩中の甘い飲み物が疲れにしみる

で、バイト終わりに実家に吸い込まれてきたわけですが、何だかんだ実家、安心しますね。

一時期は息苦しさとかもあって「もうこんなところ居られるか!」とか言ってプチ家出(という名のネカフェ泊まり)をやってみたり、友人の家に一泊転がり込んだりしていました。

でも、全部一人でやらなきゃいけない下宿暮らしと、まだ慣れないことも多い接客業のバイトで疲れてから帰ってくると、やはり何だかんだ世話を焼いてくれる両親や圧倒的に充実した設備は猛烈な安心感を与えてくれます。

よく考えたら自分の部屋なんて20年近く自分のテリトリーとして過ごしてるんで、そりゃあ安心するに決まってますよね。

 

 

それでもって、ここ最近の実家に帰宅してからの習慣は「祖母に線香をあげること」です。

祖母が先月亡くなり、葬式に出席した際は、姉を押し切って遺影を持たせて貰った程、祖母は大きい存在だったようです。

 

 

幼少期、両親が共働きで日中は家を空けていたため、基本的に祖母が家事を行い、私と姉二人の面倒を見てくれていました。姉妹でかなり年が離れているので、私が面倒を見て貰っていた頃には、姉はあまり祖母の手がかかるようなことはなさそうでしたが。

中学受験が本格化する前の小4〜5くらいまでは、学校の勉強を親の代わりに見て貰ったり、他愛もない話をしたり、ある意味育ての親は祖母なのではないか?というほどでした。もちろん両親も優しかったですし、何か邪険にされたことがあったわけではないのですが、とにかく祖母と接する時間が圧倒的に長かったです。

 

中学受験を目指して塾に通い始めると、帰りが遅くなり、反抗期・思春期で親と距離を意図的に取るようになり、徐々に祖母との距離も離れました。

ネットにどっぷりの時期もこれくらいからなので、中学入る直前からはかなり家族との距離が離れていき、交流はとにかく友人主体となっていきました。

 

そして時は流れ、大学に入り一人暮らし生活開始。また家族との距離が遠のきました。

祖母は実家に帰って会えば喜んでくれるのですが、やはり歳を重ねると部屋に篭りがちで、持病を抱えることになり、介護というほどでもない簡単な手伝いが少しずつ増えました。

自分が精神科通いになり、実家での長期間の生活になると、祖母が自分のテリトリーに踏み込んできたり、祖母の手伝いで生活のペースが乱れるとイラついてしまうことも増え、かなりつっけんどんな態度で接してしまいました。それでも祖母は「ねぇ、手伝ってくれないかしら?」と簡単な頼みごとをし、冷たい顔で私が接する。今ではこのことを後悔しています。

あれだけ冷たく接しても、かわいい孫だからと二十歳を過ぎても散々甘やかされていました。帰るたびにお小遣いを貰ったり、事情を説明しては遠征費を工面して貰ったり。ボケて姉妹の見た目の区別があやふやになっても、妹の方とわかればワガママを聞いてくれる、穏やかなばあちゃんでした。

 

8月、旅行から帰ろうという時に母から祖母の訃報を聞いた時には、相当なショックを受けました。

しかも、2週間後には実家へ戻る予定を入れていたため、久々に会えるな、と期待していたところだったのです。

「ATM扱いしてたし、介護がストレス源の一つだし、悪いけどこれで清々する」と実家に帰って葬式に出席するまでは思っていました。

斎場で綺麗に飾られた花を見て、現実を直視できなくなりました。孫2人からの別れの挨拶も、私の番ではまともに喋れなかったです。

一番ショックであろう母からも「(大きな存在や大切なものは)無くしてから気づくものだよね」と一言励まされるほどに。

両親への反抗期から遅れてきた祖母への反抗期が、こんな形で終わってしまいました。

「ばあちゃん、ただいま」「こんなことあったよ」と、暇な時は遺影に語りかけています。

 

話は飛びますが、「浅草サンバカーニバル」というパレードコンテストがあり、「仲見世バルバロス」のパフォーマーとして出演しました。

テールポイという、おもりの先に布がついていて振り回す道具ですが、「キラキラにして派手にしてほしい」というバルバロスの衣装さんからの要望で、おもりの先ににつける布を自作しました。

布こそユザワヤで買ったものですが、縫うのに使ったのは祖母が生前愛用していたミシンなどの裁縫道具。夜更かししながらどうにか第一号完成。

母からアドバイス貰っていたとはいえ、製作作業はほぼ1人。「ばあちゃん、うまくいかないよーー!」などと大騒ぎでした。

 

一度使ってみたところ、おもりとの接合部が弱かったため手縫いで補強し、本番へ。

結果は仲見世バルバロス完全優勝。審査項目全項目トップ、さらに後ろに連れて歩く山車であるアレゴリアも最高評価。

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昼食のとんかつ、打ち上げご飯、翌朝の雷門


 

私が祖母の裁縫セットを借りて作った道具が壊れることもありませんでした。

祖母はなにかと心配性だったので、布にご加護か何かをつけて、沢山の観客に紛れて見守ってくれていたんだと思います。

私にとって偉大な祖母に、完璧な報告ができて本当に嬉しいと思った浅草サンバカーニバルでした。

 

今日もまた改めて実家に戻り、祖母に直近の話を聞かせて線香をあげました。

ばあちゃん、私はなんとか元気だよ。またお砂糖ミルクたっぷりの甘いコーヒーと、美味しい緑茶淹れるよ。

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